粟田純徳のwikiプロフや経歴!出身中学や高校はどこ?結婚して嫁や子供はいる?

穴太積(あのうづみ)をご存知ですか?

自然石に手を加えず組み上げていく工法です。

現在、この技術を継承しているのは、粟田純徳さんが経営している会社だけなんです。

NHKの「ブラタモリ」に出演したこともあるのでご覧になった方も多いでしょう。

出身中学や嫁や子供についても調査し、穴太衆や穴太積についても解説しました。

この記事では、粟田純徳のwikiプロフや経歴!出身中学や高校はどこ?結婚して嫁や子供はいる?をテーマにご紹介します。

 

粟田純徳のプロフィールと経歴

粟田 純徳(あわた すみのり)

生 年:1968年
出 身:滋賀県大津市坂本
職 業:穴太衆15代目頭、株式会社粟田建設社長
経 歴
経 歴

中学卒業後、祖父の万喜三(まきぞう)さんに弟子入り

2005年 社長就任
2009年 米国の石工技術者の訪問を受ける
2010年 カリフォルニア州で石積みのワークショップに参加
2012年 神奈川県で善了寺聞思堂の建設に携わる
2014年 シアトルで石垣づくり講座を行う
2016年 ポートランド・ジャパニーズ・ガーデンにおいて石垣を完成させる
2017年 テキサス州でロレックス米国支社の外構部分に石垣を築く

粟田純徳さんは石工です。

自然石に手を加えず組み上げる穴太積(あのうづみ)の唯一の継承者です。

国定史跡の石垣の修復などを手がけています。

粟田純徳さんの会社

粟田純徳さんは、穴太積工法を行う建設会社の代表取締役です。

それでは粟田純徳さんの会社について見てみましょう。

名 称:株式会社粟田建設
所在地:〒520-0113 滋賀県大津市坂本3丁目11-29
法人設立:昭和47年10月1日
資本金:10,000,000円
代表取締役:粟田 純徳
認可事業:土木一式工事、建築とび工一式、石工事、造園工事
営業内容:城郭・社寺・一般邸宅石垣石積及び修復工事、特殊工(曳家、揚揃、素屋根掛工事)、大小宅地造成工事・その他土木、建築工事全般にわたってご相談承ります
TEL:077-578-0170
FAX:077-579-1379
e-mail:info@anoushu.jp
URL:http://www.anoushu.jp/

沿 革

江戸時代初期:阿波屋喜兵衛創業
明治6年4月:屋号『桶万』に変更
昭和9年8月:粟田万喜三、十三代目継承
昭和39年4月:社名『粟田建設』に変更 責任者に粟田純司就任
昭和47年10月:有限会社に変更 粟田純司社長就任
平成17年6月:株式会社粟田建設に変更 粟田純徳社長就任と第十五代目継承

史跡関連主要工事

●特別史跡安土城跡石垣修理工事
●国定史跡篠山城跡石垣修理工事
●国定史跡朝倉敏影居城石垣修理工事
●国定史跡彦根城石垣修復工事
●国定史跡竹田城跡石垣修復工事
●国定史跡和歌山城石垣修理工事
●国定史跡高知城跡石垣修復工事
●国定史跡洲本城跡石垣修復工事
●その他各都市の城郭石垣修理工事
●延暦寺・三井寺・西教寺・善光寺他石垣石積工事
●公園、河川、一般住宅石垣石積工事

引用元:株式会社粟田建設(http://www.anoushu.jp/)

粟田純徳の出身中学や高校はどこ?

粟田純徳さんは出身中学については公開していません。

しかし、出身地が滋賀県大津市坂本なので、地元の公立中学校を卒業したものと思われます。

そうなるとこちらの中学校を卒業した可能性が高いでしょう。

大津市立日吉中学校
所在地:〒520-0105 滋賀県大津市下阪本6丁目38−26
電 話:077-578-0056
設立年月日:1947年4月1日

なお、粟田純徳さんは中学を卒業後、祖父の万喜三(まきぞう)さんに弟子入りしているので、高校には進学していません。

粟田純徳に嫁はいる?

粟田純徳さんは既婚者です。

しかし一般の方なので詳しいプロフィールを公開しているわけではありません。

したがって嫁がどんな方なのかは不明です。

もちろん顔写真もありません。

粟田純徳の子供は?

粟田純徳さんには2人のお子さんがいます。

娘さんと息子さんで、娘さんはもう大きくて20代になっています。

息子さんは12歳ですから中学生ということになります。

 

粟田純徳が継承した穴太積と穴太衆

ここからは、粟田純徳さんが継承した穴太衆と穴太積について見ていくことにしましょう。

また現在では穴太積の技術は、粟田家のみが伝承者となっているので、粟田家についても見ることにします。

粟田家と穴太衆

穴太衆(あのうしゅう)は、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団です。

主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団ということになります。

石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)とも称します。

「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」になります。

穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと])などとともに、俗称になります。

現在の滋賀県大津市坂本穴太である、延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であると言われています。

寺院の石工を任されていましたが、高い技術を買われ安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになりました。

それ以降は江戸時代初頭に到るまでに、多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られました。

彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったといいますが、不明な部分も多くあります。

現代でも坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ町並みに特徴を与えています。

粟田純徳が受け継ぐ穴太積

穴太積(あのうづみ、穴太積み)は、野面積(野面積み)を指して昭和初期以降に用いられるようになった俗称で、穴太衆が手がけた野面積の石垣のことを言います。

しかし野面積のことを穴太石垣と誤解されることもあるようです。

穴太衆は石垣職人であり、したがって、実際は玉石積や切石積も行えました。

また、滋賀県甲賀市甲南町から水口町にかけての県立自然公園を通る新名神高速道路で、西日本高速道路大津工事事務所が、自然環境との調和などを狙い穴太積の採用を考えた際、現代建築に適用可能かどうかを試すために、京都大学大学院による穴太衆積とコンクリートブロックによる擁壁を並べて、最大荷重250トンをかけて実験を行ったことがあります。

その結果、荷重200トン時点でコンクリートブロックの方が先に亀裂が入り、荷重230トンでコンクリート崩壊のおそれがあり、実験中止となりました。

これを受けて工事現場から出土した花崗岩などを再利用した高さ3.5m、長さ260mの石垣が、同区間へ採用・新造されています。

粟田純徳と粟田家

粟田家は江戸時代初期の阿波屋喜兵衛が祖で、会社組織として存続しています。

1964年に十三代目が粟田建設を商号とし、1972年に有限会社化と十四代目継承、2005年に株式会社化しました。

2020年時点では粟田純徳さんが「第十五代目穴太衆頭」として活動を行っています。

粟田家は坂本を門前町とする比叡山延暦寺の石積みの仕事を代々請け負ってきたほか、第二次世界大戦後は兵庫県の竹田城や篠山城、滋賀県の安土城や彦根城、さらに高知城、洲本城などの石垣修復を手掛けました。

近年は文化財の修復にも競争入札が導入され受注できない石垣修復も多くなりましたが、2010年にアメリカで実施したワークショップで野面積の頑丈さと芸術性が評価されて、ダラスのロレックス支社などでも施工するようになっています。

和の佇まいがそこかしこに。

石って趣ありますね^ ^

石垣で巡る穴太積

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粟田純徳の穴太積は海外からも高く評価されている

以上、粟田純徳さんと穴太衆、穴太積について見てきました。

自然石を組み合わせて積み上げる穴太積の方が、コンクリートブロックよりも強度が高いとは驚きですね。

近年では海外からも高く評価され、外国での施工例も増えているそうです。

日本の伝統技術ですから、これからも受け継がれていくことを望みます。

この記事では、粟田純徳のwikiプロフや経歴!出身中学や高校はどこ?結婚して嫁や子供はいる?をテーマにご紹介しました。

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